ファミコン
ファミコンとは
1983年7月15日に任天堂から発売された家庭用向けビデオゲーム機で
『ファミリーコンピュータ』の略称または愛称である。
※年配の方はゲーム全体を指す。→例「もうまた、ファミコンばっかりやって!」
商品の出荷台数は
日本で約1935万台、日本以外では約4356万台、全世界累計出荷台数約6291万台にも上る
モンスター家庭用向けゲーム機である。
発売当時の価格は14,800円。
1985年にはNintendo Entertainment System (略称NES) としてアメリカで発売されている。
初期に製造されたファミコンのコントローラーのABボタンは四角いゴム製だった。
しかし連打がやり難かった事や故障もしやすかった為に丸いプラスチック製のボタンに改良された。
※竹肉ん家のコントローラーは四角いゴム製だった。
また驚くことにファミコンは部品調達が困難になる2003年9月末まで生産をしていた。
(世紀をまたいだことになる。)
当時のファミコン
ツインファミコン(大半の子供たちの憧れのアイテム。※荒牧ん家にはあった。)
ニューファミコン
私の家にファミコンが来たのは小学2年生の時である。
その時一緒に買って貰ったソフトは
私がマリオブラザーズで姉がアイスクライマーであった。
その日から気が狂ったかのごとくファミコンに夢中になり
ファミコンを中心とした生活へとシフトされしまった。
(マリオ→アイスクライマー→マリオ→アイスクライマー→マリオ→アイスクライマー……∞)
しかし当時、私たちの周りでファミコンを持っていない者達は決して
マイノリティーと言う存在では無かった。
女子の多くは持っていなかったし、まだ純粋な野球少年、サッカー少年もいた。
そんな状況もスーパーマリオやドラゴンクエストが発売され
ファミコンと言う言葉がブームの枠を超え文化になろうとしていた、その時
ファミコンを持って居るか否かが重要な問題となってくる。
つまり持っている者と持っていない者の考え方と環境がパラダイムシフトされるのである。
常に話の話題の中心はファミコンとなりファミコンを持っていないジャイアン的存在
以外の者は、窮屈な思いをせざるをへない状況となっていった。
憧れる人物も高橋名人や毛利名人。
あの分けの分からない人達をホンキで凄いと思っていた時代。
その時ファミコンは既にわれわれ小学生の共通言語となっていたのである。
友達の家に遊びに行くときには家にある全てのカセットをケースに入れ
復活の呪文用ノートとファミマガの付録の裏技本を持って行くのである。
しかしまだ我々の世代の少年達は外でもちゃんと遊んでいた。
がしかしファミコンもするのである。
野球をするにもサッカーをするにもファミコンカセットは『一応』持っていくのである。
それは遊ぶ場所が確保出来なかったり、雨が降って来た時の保険であり、スポーツの苦手な子達の救いでもあったからである。
またアンダーグラウンドな所ではファミコンを手にしなければ野球では打席が回ってこないし、
サッカーではパスが貰えないと言う子供達の裏の社会状況と言うモノも存在していた。
(この文章はちょっとエスカレートして来てんじゃな〜い。)
その頃から二列目の位置にいた野球少年、サッカー少年達(とくに強い意志をもってやっていない子達)が随分と減ってきたのかもしれない…
そう当時の少年達は悲しい事だがゲーム業界のモルモットでしかなかったのである。
そんな私達も中学生のあたりから部活に受験とで「食う寝るファミコン(遊ぶ)」から
ゲームをする者としない者へと選択肢が出来てきた。
その辺りから私もゲームから徐々に気持ちが離れていってしまった。
そして現在、私は全くといっていいほどゲームをやっていない。
全てはこの時(ファミコン)の為に生きてきたと言うあの時代を懐かしく感じる…
おまけ
もしファミコンの「ファミ」がファミリーではなく『ドメステック』だったらドメコンだったのかなぁ…
・スーパードメコン
・ツインドメコン
何かかわいくないなぁ… |